松永天馬を読む vol.3「自撮者たち」

「自撮者たち」考察   しなもん

 

女の子の「パワー」は、誰に見てもらえるか、どう見てもらえるか。

誰でも見てもらえる環境は作れる。kawaiiは作れる。

そして代わりはいくらでもいる。

 

 

記録に残すことが特別だった時代においては、一般の人は誕生日や入学式など限られた行事でだけ写真やビデオを撮り、日常的に被写体になるのは俳優やモデル、アイドルなど「見られる仕事=芸能人」に限られていた。

しかし時は流れスマホ時代。誰でもお手軽に写真を撮って、お手軽に見てもらえるようになった。これにより「写真を撮る」という行為において、一般人と芸能人の差異は小さくなり、特に日常を頻繁に切り取るのは同じだ。概して少女とアイドルの写真行動様式はニアリーイコールであり、少女の写真はネットで無料公開されることでかつてのアイドルの掲載された雑誌を買っていたファンとネットで少女の自撮りが見られる全人類72億人はニアリーイコールだ。

 

本書冒頭で、「女の子だもん。~だけどそれ以上に自撮者の夢はあきらめきれない。」とあり、これ以降「自撮者」という言葉が出てくるが、これはすべて「アイドル」に置き換えて読めると思い、それを軸に読み進めたい。

 

 

自撮者(=アイドル)は自撮り写真を見られて反応がある(=消費され承認欲求を満たす)ことがその子の影響力を計るひとつの指標であり、女の子同士の”流血を伴うゲーム”である”殺影会”は、ヲタクが撮った写真がアップされる量に応じて強さを表す数字が決まる戦闘システムが表現されている。

 

殺影会の間ヲタが怒号を浴びせかけるのも、自撮者たちが辛い状況と戦うところを見て楽しむ(消費する)ためであり、それは自分自身が辛い現実と対峙する置き換えとして楽しみ、自分が応援する自撮者が勝つことであたかも自分自身が成功したかのような感覚を味わうための代理戦争(しかし応援しているヲタ側には勝利の報酬は「喜び」以外は基本的にない)であると考えられる。

 

これはヲタとアイドル(特にヲタと距離が近く、自分の頑張りなど関与した結果がわかりやすい地下アイドルに多い)の関係性から推察される行動である。本書の中で自撮者たちは「JST444」というグループ名で活動しておりAKB48を連想させるものであることは明らかだが、これは著者が自撮者=アイドルという意図を伝えたいがための言葉選びでしかなく、AKBなどメジャー現場ではありえない殺影会(ライブ)中は写真撮影可という設定から、アイドルの中でもいわゆる「地下アイドル」を指しているように思える。

 

この代理戦争はなぜここまで加熱するのか?

なぜひとは7秒の握手のためにCDを購入するのか?

CDを買うお金で風俗でもいけば、かわいい子とSEXできるじゃないか?

 

ヲタをしているとこういう指摘をされることも少なくないが、ヲタの最終ゴールが「付き合う」「SEXする」ということで臨んでいるヲタであればそれが適切なアドバイスだが、私が会った多くのヲタはこのアドバイスに同意できない。

なぜなら、付き合ったりSEXするという他者との関係性を持ちたいという欲求ではなく、自分自身の戦いの代理戦争(またの名を「託した希望」)としてアイドル(自撮者)と向き合っているため、そもそも目的が違うのだ。

 

そのため、女の子である自撮者にチンチンがあるという性的な意味では意欲が減退する要素が仮にあったとしても、ヲタが応援する熱が減退することはない。むしろヲタ(男が多い)は自分をより重ねやすくなり、応援は加熱し、最後ぶぶたんがチンチンを10本まで増やしたのもより多くの応援を求めての行動だったのかもしれない。なお、現実のアイドルでは本当に濃く入れ込んだヲタは自分を重ねるまでいっても、初見やライト層も必要なので「かわいいは作れる」の言葉通り整形することもあるし、あくまでヲタの代理ではなくヲタや運営と向き合った結果、つながり妊娠して「死ぬ」(肉体的にはもちろん生きているが芸能活動から引退する)ことや、自分の人生を生きることにして大学進学など理由に「死ぬ」こともある。

 

殺影会の描写は後半に向けてますます過激になる。

ここで引き合いにだしたいのは、数人のお客さんから解散は横浜アリーナでおこなった「BiS」である。著者もトークショーでたびたび傷めつけられるアイドルの魅力としてBiSの話題を出していたが、かわいく歌がうたえてふりふりの踊りをする、というアイドル像から真逆に深化したのが、全裸PVや本人オークション出品、100kmマラソン、度重なるメンバーの脱退など繰り広げたBiSであるといえる。いちファンとして「ほんとは火種を求めている」通りだし、客としては断然BiSのほうが面白い現場になっていた。

 

なぜそれらが受け入れられたか。

それは「武道館で解散ライブをする」という一見無謀な大きなゴールが設定されたストーリーが提供されていたからだ。自分自身に無謀な夢はもう抱けない大人たちがそれに飛びついたのかもしれない(実際、BiSの客層の年齢は高かった)。また、殺影会の描写が過激になるようにBiSも過激なパフォーマンスを重ねていったが、「ウェンズデー」されることもなくアイドルとして「死ぬ」ことがなく、ヲタとしても大きなストーリーに水を差される要素がなかったのが、最終的に横浜アリーナまでいけた理由なのかもしれない。

 

しかし、プロデューサーはあえて「ウェンズデー」され、ダチョウ倶楽部上島ばりの「アップするなよ、絶対アップするなよ」とグループに火種をつけようとした。が、ウェンズデー記者がいうように「あまり意味ない」ことなのは、ヲタの目的は自撮者への自己投影であるため、男との色恋沙汰が燃料にならないということだ。むしろ先にも書いたが、ここでぶぶたんがチンチン2本付けた事(=ますます自己投影しやすくなる)のほうが、よほど意味あることであったのだ。

 

 

しかし、「代わりはいくらでもいる」。

チンチンを10本つけて過激さに拍車がかかったところで、消費されつくした本体より新しい直子マイケルに人気は集まってしまう。ここで憂子は芸能人として「死ぬ」ことになり、自分を重ねていたヲタたち(ヲタたちのかつて諦めた「自分の夢」の幽霊)もまた「死ぬ」のではないか。これが「自撮なのか他撮なのか。わたしなのかあなたなのか。」という部分にあたると考えた。

 

 

 

自撮者(アイドル)としての人格は、その女の子の人格だけでなく、ヲタの人格が応援という方法で重なって形成されることがあり、両輪かみあった時が双方にとって売上・心情面で最適な形になるのではないかと感じた。

「僕、あなた、わたし憂子が、最後に一曲歌います」

本来は恋愛スキャンダルで火をつけざるを得ないくらいアイドルとしては追いつめられた憂子ではあるものの、この一文からもわかるように最後まで忠実に自分を重ね続けたファンもいて、その関係性は美しくもあり、どこか物悲しさも感じた。

 

 

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殺影会の攻撃に用いられるパチンコアプリ「ゆきゆきてKOKYO」

これは多分本当です。ていうかほんとです。書かれたことは全て正しい。後付だろうが正しくなる。